運命と心情は同一の概念の名である
「デミアン」はユング心理学とともに当時のドイツ文学の知識があると、より理解が深まります。
主人公のジンクレエルがベアトリーチェの肖像画として描き始めた画の下に、
“運命と心情は、同一の概念の名である”という箴言が書かれています。
一読しただけでは何のことを言っているのかよくわかりません。
しかし、ジンクレエルの描いた肖像画は彼の内界を映し出していると考えると、何となく分かってくるような気がします。
“ベアトリーチェ”を描こうとして絵筆を取ったはずの肖像画は『神像か神聖な仮面』のようになり、次第に『デミアンの顔』になり、最後に『ぼく自身なのだ』という感じがわいてきます。
そして『それはボクの内面、ぼくの運命、またはぼくの魔神だった』と考えるジンクレエルが理解できるようになります。
『その幾週かのあいだに、ぼくは、それまでに読んだどんなものよりも、深い感銘をうけたものを読みはじめた.後年になっても、ぼくはめったに、書物というものをこんなふうに味わったことは二度となかった。~あればニーチェぐらいのものだった。それはノヴァアリスの一巻で、手紙や箴言が入っていた。その金言のひとつが、そのときふとぼくの頭に浮かんだ。ぼくはそれを、ペンで肖像画の下に書いた。~“運命と心情は、同一の概念の名である”それがいまぼくにのみこめたのである』
とあります。
このノヴァアリスが分かると、主人公の心情がさらに分かりやすくなるかもしれません。
母は死ななければなりません
ノヴァアリスは、“夜の賛歌”や“青い花”を書いた、18世紀後半、ドイツロマン主義の詩人です。
ノヴァアリスの青い花に、
『貴方の花園はこの世界です。この花の咲いている子供たちの母たちは廃墟です.花やかな生々とした創造されたものはその養分を過去の時代の廃墟から取っています。 然し, 子供たちが栄えることが出来るためには、母は死ななければなりませんでした。』
という表現があります。
子どもが母親から自立するには内的な母親像を消し去り、新たな自我を作り上げる必要があります。
このことはデミアンに書かれている卵と鳥の関係、破壊と創造の概念と同じ意味合いと考えられます。
人間の自我は安定した状態にとどまることなく、その安定性を崩してさえ、高次の統合性へと志向します。
人間の内面心情の変化、自己を目指す自我の成長はその人の人生、運命に他なりません。
“運命と心情とは同一概念の名である”ということはこのことを意味してるのだと考えられるわけです。
“運命と心情は、同一の概念の名である”の原文は "Schicksal und Gemüt sind Namen eines Begriffs"で、心情と訳された単語は“Gemüt”です。
“Gemüt”を辞書で引くと“心情”という訳が一般的なようですが、”魂”や“心”という訳もあるようです。
私には自我の心持である“心情”より無意識をも含んだ心持全体を代表する“魂”あるいは“心”の方がこの場合の訳としてはぴったりするような気がします。
打ち破らなくてはいけない既存の規範
ちなみに、ジンクレエルが味わって書物を読んだことのあるというもうひとり、ニーチェは「神は死んだ」という言葉で知られるようにキリスト教に対して否定的な態度をとったことで知られています.
このことはユングが注目したキリスト教の異端であるグノーシス主義やアブラクサスと“反正統キリスト教”ということで共通します.
ヘッセもユングもニーチェもキリスト教牧師の家に育ったので、キリスト教は打ち破らなければならない既存の規範として、彼らの前に大きく立ちはだかっていたことは想像にかたくありません.
参考文献:追憶と過去(中野久一)